本日はお忙しい中、「遠き山に日は落ちて」の公演にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。上演に先立ちまして、皆様にいくつかお知らせしておきたいことがございます。本公演は3部構成、約4000字と、インターネット世代、スマホ世代の皆様にはやや長めの作品になっております。全編通して希望の方向に話が進みますが、一部仕事上でのトラウマを想起させてしまう可能性のある箇所がございます。鑑賞する章に関しては個人のご判断にお任せします。長くなりましたが、まもなく上演を開始します。思い思いの体勢でご鑑賞ください。
ブザーがなり幕が上がる。
1章 ブランコ
人は大抵の場合できることよりできないことの方が多い。例えば私の場合、立ってブランコに乗ることが出来ない。両手で身体を支え、膝を曲げながら体重を移動させ、前後に弾みをつけるはずが、バランスを崩さないように踏ん張った結果膝が曲がりきらず、前後に弾みがつかないため、なんとも珍妙な姿で立ち往生するしかなくなってしまう。
手足から伝わる温度と圧、情報の多さに緊張してどうにもいろんなことの調整がうまくいかないのだ。
暮らしていく上でも同じことを感じることがある。頭で理解している運動をどうにも身体が思うように実行出来ないのである。
大学を卒業し就職すると、「上司」という人がいて私はたくさんの「上司」のいる「会社」の一員になったということらしかった。仕事の上で「達成感」やいわゆる「やり甲斐」みたいなものももちろんあるけれども、多かれ少なかれ忙しい日が続くと、あっという間に余白は無くなり無下に立ち尽くす自分に気が付く。
月に何十点もの案件を抱え、一日中鳴り止まない電話、遅くまでの残業、厳しい叱責の声。
働き出して一年位した頃からいよいよバランスがおかしくなった。呼吸が浅くなり、頭が思う様に働かず考えがうまくまとまらない。
さらには学生時代に情熱を注いでいた映画や音楽、漫画が息抜きにならず、まとまった時間があっても何もする気にもなれなかった。
「次の休みは早起きして映画でも観て、気になっているコーヒーショップを冷やかして~」なんて頭では思っていても、なんとなく疲れていて二度寝三度寝微睡んで、気がついたら昼過ぎ、結局夕方から近所の銭湯に行って一日が終わるなんていう休日が増えた。
そんな中平日の仕事終わりに大学時代の友人二人と久しぶりに会えることになった。
二人とは大学時代に、お気に入りのミュージシャンに声をかけ、ライブハウスなどで共にライブを企画するサークル活動に興じていたが、なんでも二人で「働く中で得た知識を仕事以外に昇華」すべく何か始めようとしており、それに私を誘ってくれたということらしかった。
私はブランコの上でのバランスを掴んだ気がした。
「働く中で得た知識を仕事以外に昇華させてみたい。」
「一人でやるまでの意欲がわかない興味も誰かとならできる気がする」
二人との会話の中で自分の得体の知れない悩みが言葉になってすとんと落ちていくのを感じた。
二つ返事で誘いを受け「与白」結成となった。
2章 遠き山に日は落ちて
こうして結成された与白の活動の中で、レシピやデザインに及ぶまですべてオリジナルのクラフトビール「MADOI」を作らせて頂いた。フォロワーの皆さんにもお裾分けさせて頂き大変ありがたいことに全数完売となった。
ビール完成後なかなかこうした形で皆様にお知らせできなかったのは、私のような全くの素人がどこかで聞き齧ったことのある様な話を披露して一体何になろうかと疑わしかったからであるが、しかしまた素人の手解きほど素人に通じやすいものはないだろうから、何かの役割を果たすのかもわからない。
もっとも卑下ばかりもしていられない。例えば宇宙飛行士に滞空何時間という経歴を大切にする習わしがあってこれを適用するならば、私のビールと向き合った時間は莫大なものになりそうだ。
そこで随分と遅くなってしまったが
① 「なぜビールを作ることにしたか」
② 「MADOI」に込められた意味
についてお話ししたいと思う。
① 「なぜビールを作ることにしたか」
なぜビールを作ることにしたか、それは今から1300年以上前に生まれたとあるビールの持つ歴史的裏付けが今日のわたしたちに共通していると感じたからである。
ビールの起源には諸説あるが、はっきりしない。記述がはっきり残っている頃まで遡ればその起源はキリスト教が広がりを見せた中世ヨーロッパにまで遡る。
信仰を深める場として知られる修道院において、農作業や開墾といった生産活動の一環として、ビールの醸造が行われ人々の暮らしに秩序をもたらしていたのである。
中世ヨーロッパにはお茶やコーヒーはおろか清潔な水の確保さえ困難であった。そのため生産過程に煮沸工程のあるビールは衛生面においても支持され、瞬く間に人々の生活に広まった。農作業で喉が渇けば薄いビールで水分を補い、祭事では高濃度のビールで士気を高め合った。
修道院ビールの優れた品質は、来訪者の風評で広く知られるところとなったがそれにはもちろん、醸造工程を科学的に分析し体系化した修道士たちの地道な研究努力があったことは言うまでもない。
人々が日々の暮らしに精一杯だった時代、修道士たちは古典古代の教養に触れながらゆっくりと勉学に勤しみ、のちにはホップの使用を発明し、今日までのビールの発展と、人々の暮らしの安定に帰結したのである。
今日の私たちはいかようであろうか。日々の生活に精一杯な上、コロナ禍によって人との物理的距離が離れ、思うように人と会えない。結局趣味という趣味といえば、浮世離れしたinstagram映えしそうなアウトドア体験やおしゃれなカフェ巡り、ストレッサーである外からの情報を断ち切るためのサウナ、のような「対価を払って人との距離を隔ててしまうもの」を無意識に「選択」してはいないだろうか。
心の距離は目に見えないから不安だ。
そんな距離を縮めてくれるのは中世ヨーロッパも今も変わらず、生活の「余白」の中で何を考え、どのような行動をしたかではないか。
こうした考えから長い間会えず心の距離の見えない人へのいわば「つっかえ棒」のような意味を込めてビールを作ろうと思ったのである。
② 「MADOI」に込めたメッセージ
突然だがみなさんは「遠き山に日は落ちて」という曲をご存じだろうか。
遠き山に 日は落ちて
星は空を 散りばめぬ
今日のわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
夕方のチャイムや、キャンプファイヤーでよく使われる曲と聞けばわかりやすいだろう。
その起源はドヴォルザーク作曲の交響曲第9番「新世界より」第二楽章のメロディに基づき作詞家 堀内敬三氏が日本語の歌詞をつけたものと言われている。
この曲の最後に登場する「まどい」とは「円居/団居」だそうで、車座になって囲炉裏や火を囲むことから転じて、特に親しい者たちが集まって楽しむこと、団欒をさす言葉だ。
私は円居には、こうした辞書的な意味とは別の意味があると信じている。
円居とは、自分の外に向き合うことで生み出される不思議なリアリティのある舞台であると感じている。直感的な感覚と内と外を流れる気流が心に触れる時、そこに現れてくるような生きたリアリティだ。
従ってその中での私の表現は、個人の表現であると同時に大きな繋がりの中での表現でもあると感じている。等身大の身体を持ったスケールでつながっているつながりを感じる。そのリズムや呼吸は共鳴する何か、もしくは誰かを振動させるのかもしれない。もはや自分の表現は、自分だけのものではないのである。
例えば私の最初の円居の記憶はうんと小さい頃、おそらく7歳の頃だ。
小学校の校庭にある事務室兼物置のような小さな建物の後ろに秘密基地を作った。背の高い月桂樹が植えてあって、同級生たちとその木を囲むように胸の振動を感じながら話したのをよく覚えている。そこでの会話や、一挙手一投足は、優しく差し込む日差しや、足元の土の感触や匂い、凝縮されたすべての体験と時間と共鳴しながら記憶の奥底に刻まれるのである。
人は人という社会の当事者だからそれぞれが局所的にしか世界を見ることができなくて、だからこそ円居をして相互に主張し補うことでなんとか全体図を把握しているのである。
こうした円居が自由に出来ない日が続いて久しくなる今日この頃、
「MADOI」と名付けられた今回のビールは誰かの暮らしの中でいつかの「円居」をゆっくり思い出せるような一杯となるように願いを込めて作成した。
3章 終わりに〜それでも繋がりたい〜
私が立ってブランコに乗れないように、世界の温度と圧、情報の多さは人から自由を奪ってしまう。手も足も、胴体も自分のものであるのに思うように動かすことが出来ないことがある様に自分のこともよくわかっていない。
結局のところ人は局所的にしか世界を見ることが出来ないから、分かり合えないものであるとも思う。極限まで分かり合えてもなお、脳が同期したり、同じ人間になったりは出来ない。
しかし私は、本当の気持ちなんて分からないことをお互いにわかり合いながら、出来るだけわかり合いたいし、伝えたいと思う。
最後に今回ビール造りをサポートしてくださった木内酒造様、お披露目に駆けつけてくれたり
ビールを通じて久しぶりに連絡をくれたみんなに心からの感謝の気持ちを込めて。
text by 西野亮太