先日、『傷を愛せるか』と題された本を東京・神保町の三省堂書店で偶然見つけた。著者は精神科医の宮地尚子。トラウマやジェンダーといったテーマで何冊かの本を書いているらしい。
この本の中に『弱さを抱えたままの強さ』という一節がある。『スタンドアップ』というアメリカのセクハラ集団訴訟をモチーフにした映画を引き合いに、「ヴァルネラビリティ(vulnerability)という概念について綴っている。
ヴァルネラビリティという単語は、辞書を参照すると「脆弱性」と直訳される。おもにITの分野で使われ、コンピューターウイルスなどの攻撃に対するシステムの欠陥や問題点のことを指すワードだ。しかし著者からすると、この直訳ではヴァルネラビリティという単語のすべてを表現できていないような気がしてしまうのだという。
そんな違和感を抱えていた折、たまたま『スタンドアップ』を観た著者は、この映画の主人公であるセクハラ集団訴訟の原告の女性(ジョージーという)に「ヴァルネラビリティ」の本質を認めたという。
ジョージーはこれまでにも、幾度となく性的暴行やDVといった被害に遭ってきた。そうした被害から逃れるように地元へ帰り、父親が勤めていた鉱山会社で働くことになるのだが、そこでもみたびセクハラを受けることになる。状況改善を会社上層部に訴えるものの、会社からは不当解雇の扱いを受け、このことがきっかけとなり集団訴訟へと向かっていく、というストーリーとなっている。
一見不運な一人の女性が自ら置かれた状況を自らの力で覆していく、逞しい女性像が描かれている映画のようである。だが、宮地はやや異なる見方をする。つまりこのジョージーという女性は、専門家から見てもあまりにも被害に遭いやすい振る舞いをしているのだという。
たとえば、誰にでもすぐ気を許してしまう、性善説で話を安請け合いしてしまう、といった行動がジョージーには顕著に見られる。精神科医でトラウマやジェンダーを専門に扱ってきた宮地にとっては、自身の元に相談をしてきたDVやセクハラの被害者にもこうした傾向があり、ジョージーはそうした被害者の姿とよく重なるようだ。そして、隙が多く誰にでもあけっぴろげな、そうした振る舞いこそが、まさに「ヴァルネラビリティ」というワードをよく表現しているのだと、宮地はいう。
その上で宮地は、ヴァルネラビリティを抱えながらも強く生きていける社会の必要性を、この本の中で訴える。ややもするとつけ込まれてしまいそうな弱さを抱えながらも、それを個人が、社会が受け容れ、決して隅に追いやることがないようにする。弱さと向き合い、その営みこそが強さとなっていく。そうした繰り返しが、いま求められるのではないかと。
この『傷を愛せるか』という本は全部で23編からなるが、僕は特にこの『弱さを抱えたままの強さ』が印象に残った。それはきっと、社会がヴァルネラビリティを露呈させた、このコロナ禍をいままさに経験しているからではないかと思う。
コロナ禍以前、僕たちは「成熟した社会」に生きていると言われてきた。そして、その成熟した社会の中のわずかな「隙」を必死に探し、それを食い扶持にして生きてきたのだった。こうした営みのなかで、いわばあら探しが上手い人だけが成り上がり、一方で、隙が多く脇が甘い、イノセントな人たちが割を食う社会が強化されつつあった。
しかし、そこに突如としてコロナが襲いかかった。成熟し、完璧に近づきつつあると思われた社会はにわかにボロボロと崩れ去り、社会そのものが機能を停止した時期もあった。誰もが途方に暮れ、「成熟」を信じきっていた社会は、コロナによってその不完全性≒ヴァルネラビリティの存在を突きつけられたのだ。
それなのに、いまだに社会は自らのヴァルネラビリティを受け容れようとはしていない。むしろ、ヴァルネラビリティを必死に隠し、いかにしてこれまでと同様に生きていくかという瑣末な事項に腐心している。あらゆる方法でリスクをゼロに近づけ、「持続可能性」という正義を振りかざし、これまで以上に完璧で平滑で「ことなかれ」な社会を目指そうとしている。
こうした社会は端的に愚かだ。ヴァルネラビリティは誰もが持ちうるもので、社会全体としても同様である。にもかかわらず、その事実を無視し、さらに悪いことには、潔くヴァルネラビリティを受け容れた少数派の個人に、その存在の全てを押し付ける。
僕は、こうした現状に「余白」の存在を提示することで抵抗していきたい。より一層成熟へ、完璧へ、平滑へと加速していく社会に向けて、次々と余白の存在を定義していくことで、動かざる社会をわずかに「ずらす」ことができる。余白は社会の遊びであり、可動域だ。
動かざる社会の中で、隠されていたヴァルネラビリティを、自らの手でこじ開け、その存在に向き合い、共に生きていく。この繰り返しによって社会に新たな余白が生まれ、いよいよ「ずれ」は大きくなる。そうした社会にこそ、「弱さを抱えたままの強さ」があるし、それがすなわちこれからの「豊かさ」なのではないかと思う。
ヴァルネラビリティを受け容れ、余白を提示していく。この一連の流れのきっかけは、とてもちいさなものかもしれない。しかし、それはゆっくりと、確実に伝染していく。やがて大きな波となり、より多くの人が「弱さを抱えたままの強さ」とともに生きていける社会を、僕はみてみたいと思う。
text by 久保田貴大